

かめいひろき行政書士事務所の亀井宏紀(かめいひろき)と申します。
私自身、個人のホームページは、なにかの時に「こいつは何者なんだ?」と第三者が思った時に、検索してみて「なるほど、こんなやつなのか」と確認するためのツールの部分が大きいと思いますので、かなり長くなりますが自己紹介をしたいと思います。
まずはじめに、この「行政書士」という資格にたどりつくまでにさまざまな人生経験を積んできてしまいましたので、恥ずかしながらの紹介とさせていただきたいと思います。
ちなみに私の世代ですが、以前、放送しておりましたNHKの朝ドラ「半分、青い」の主人公たち、楡野 鈴愛(永野 芽郁)、萩尾 律(佐藤 健)と、まったく同じ1990年に田舎から上京(私は、東京ではなく神戸ですが)してきました。
よって、ちょっと朝ドラ風に私の経歴を紹介していきたいと思います。
【和歌山編】
出身は、和歌山県の有田川町という所です。町名の通り、「有田みかん」が有名です。
ネタではなくて、秋になると山々の段々畑がみかんの色で埋め尽くされます。
現在は有田川町ですが、合併前は吉備町という町でした。
岡山県の昔の国名「吉備国」と関係があるのかは、よくわかりません。
しかし、岡山と和歌山はよく言い間違えられるので、何か関係があるのかもしれません。
現在でも、町は空気と水が本当に美味しい田舎町です。
高校は、地元にある「和歌山県立 耐久高校」に行きました。
地元以外の方から、出身高校はどこですか?と聞かれ、「たいきゅう高校です」
と返答した時、ほぼ「どんな漢字を書くんですか?」
と聞かれますので、「鈴鹿8時間耐久レースの耐久です」と答えていました。
しかし、最近の方は「鈴鹿8時間耐久レース」自体をご存知なのかは不明です。
昔は「バリバリ伝説」などの漫画も流行っていたので、よく知られてましたが。
高校では柔道部に所属していました。
高校時代は、身長176センチ、体重85キロほどの体格をしており、毎日バーベルを上げていたので見た目は強そうな感じでしたが、技の切れがなく強くない選手でした。
今でもそのなごりか、初対面の方から「なにか運動をされてたんですか?」とは聞かれます。
今は、エアロビクスをしていますと一応答えています。
あと、中学、高校時代に学校の部活以外に「ジュニアリーダー」という組織に入っていました。
地域の子供会を中心にキャンプファイヤーやレクリエーション、奉仕活動などを行うものです。
夏には県内の子供が一か所に集まって「こどもの国」なるイベントにも参加していました。
大学は、神戸にある「流通科学大学」に進学することになります。
今は亡き、スーパーのダイエーの創業者である中内功(いさお)氏が設立した、ちゃんとした4年制大学です。専門学校ではありません。
入学を希望したきっかけは、「スーパーの会社が大学を創る!」とのをニュースを見て、将来は何か商売関係の仕事をしたいと思ってたので、高校卒業後は就職するつもりでしたが、それはやめて大学に行くことにしました。
もっとも、高校時代はファミコンと部活しかせず、勉強を一切していなかったので、大学に行くと担任の教師と部活の顧問に報告したときには、世の中をなめるなと怒られました。
高校は地元では一応進学校でしたが、田舎の高校でしたので当時はまだ在籍の4分の1ほどは就職していました。私の成績ですが、高校1年生の時にあった学年統一テストでは、405人中400番でした。
まだ、後ろに5人いると当時の私は安心していましたが、後で当日は5人が風邪で欠席していることを担任から言われました。
高校2年生の時に受けた全国模試では、和歌山県の受験者数と私の成績順位が同じでした。
このような状況だったので当然、先生方からはご指導が入るのですが、私自身は勉強をしていないから成績が悪いだけだとへんな意識がありました。
しかし、大学受験はさすがに勉強しないと受からないことはわかっていたので、志望大学の受験科目だけ勉強を絞ってやり始めたら成績は上がりました。
特に、世界史は学年で一番になったのを今でも覚えています。たしか、全国模試でも世界史だけなら1桁台の成績でした。総合成績はダメでしたが。
この時、普通の人間でも範囲を絞って集中すればなんとかなるんだというのを経験しました。
以前、「ビリギャル」という映画があり、慶応大学に合格してましたが、合格した学部は科目数の少ない学部で、その分野を集中して勉強していたので合格していました。
この経験則は今でも同じなんだなと実感しました。
そして運よく、私も志望大学に合格し、神戸にいくことになりました。
【神戸編】
「流通科学大学」に進学し、大学では学園祭実行委員会に所属しました。
入学したときは、まだできて3年目の大学で大学には柔道部もなかったので、特に入りたい部活はなかったのですが、新入生歓迎のパーティーを仕切って運営していたのが学園祭実行委員会だったので、面白そうという理由だけで入りました。
メインの行事は名称の通り、学園祭の実行ですが、なぜか変なおもしろい人間ばかりでしたので、忙しいながらも楽しくやってました。
大学の学部は商学部ですが、語学の授業がめちゃくちゃありました。
受験科目の世界史で中国史が大好きだった関係で、よく考えず大学の履修を中国語専修にしてしまいました。
学校自体、語学教育に力を入れており、特に中国語は気合が入っていました。
教えてくれる教授は日本人ではありますが、NHKの中国語会話などでも教えていた先生でした。
しかも中国語専修クラスは、第一外国語が中国語、第二外国語も中国語だったので、毎日中国語の授業がありました。
さらに、夏休みには1か月間の短期中国語学留学もあったので、私は外国語大学にきたのではないかと当初は本当に思っていました。
また、3年次からのゼミはマーケティングのゼミに所属しました。
ゼミはケーススタディ方式でした。講師と受講生が対話を進めながら進行する手法で、ビジネススクールで行われているやり方です。
教材も教授が厳選したもので、今振り返れば、かなり高度なことをしていましたが、当時はよくわかってませんでした。本当にもったいないです。
そんな中国及びマーケティングとの関係から、大学4年生の時には大学から派遣される中国の流通調査に参加しました。
中国の成都から重慶、上海と長江(揚子江)を下りながら流通調査を行うという壮大なものでした。
4年生の男子は私だけだったので、雰囲気的に学生リーダーに任命されてしまいました。
大学の理事長でもある中内功が同行するので、学生よりも周りの取り巻きのスタッフの方々が大変だったことをよく覚えています。
当時の中内氏は、けっこう飛ぶ鳥を落とすような勢いでビジネスをしていて、お店もどんどん出している、ホークスという球団も持ってる、リクルートも買った、という感じだったので、今でいうソフトバンクの孫社長ぐらいのレベルだったと思います。
学生ながら、すごい人が来ると周りの方はいろいろと大変なんだということを学べたのが印象的でした。
少し話はそれますが、私のいた「流通科学大学」ですが、当時は本当に画期的な大学でした。
今では当たり前のことを1990年にはやってました。時代の先取り感が半端ないです。
まず、学内はキャッシュレスです。財布を忘れても学生証にクレジットカード機能がついているので、買い物ができます。学生専用の駐車場もあり、その出入りも学生証でできます。授業の出欠も学生証です。まだ、インターネットもない、携帯電話は存在していましたが、みんなが持てる時代ではない時にこのシステムです。
カリキュラムの中でも「企業論特別講義」というのが毎週あって、内容はなにかというと毎週、企業の社長がきて講演をします。
社長といっても中小企業の親父さんではなく、誰もが知る超一流企業の現役社長です。
例えば、三菱商事やJR東日本などの社長です。
学生の時はひまなので講演を聞きにいっていた感覚でしたが、社会に出てすごいことだと実感しました。
また、就職活動などに関しては3年生の終わりごろから特定の企業の協力のもとインターンシップがありました。
なんだインターンシップか、そんなのどこでもしてるじゃないかと言われるかもしれませんが、インターンシップを日本の企業が行い始めたのは2000年代に入ってからです。
それを私のいた大学は、その10年前からやっていました。なんともすごいことです。
すごい大学でしたが、私は勉学に熱心な学生ではなかったので、本当にもったいないことをしたと思っています。
【ダイエー、竹岸編】
卒業後はダイエーに就職しました。当時は大学の理事長=ダイエーの社長の中内氏だったので、卒業生の1割ほどはダイエーに入社していました。
入社後は精肉部門(スーパーのお肉売り場)に配属され、毎日、お肉に囲まれた日々を過ごします。
お肉屋さんに配属され、お肉に関するウンチクなどもたくさん教わりました。
例えば、上司から教わった、普通の人が美味しいお肉を食べた時に言う最初の一言は、『美味しい!』ではなく、『やわらかい!』だ、などということでした。
これを聞いてから他の人と焼肉にいった時など、注視して食べた一言目を聞いてるとほぼみんな『やわらかい』と言ってました。
入社2年目には、「竹岸食肉専門学校に派遣を命ず」という辞令が出ました。
学校卒業後、会社に入ってまた学校に飛ばされるというそんな辞令があるのか!と初めて知りました。
「竹岸食肉専門学校」とは、茨城県土浦市にあるお肉の専門学校です。ハムメーカーのプリマハムが運営している食肉学校です。
そこでお給料をもらいながら半年間、なんと全寮制で再び学生生活のスタートです。
今でも覚えているのが入学式の前日に入寮するのですが、受付のほうに行ったところ、学校の職員らしき方から「おい、亀井、受付はこっちやからここに並べ」と言われました。
はっ?まだ受付してない、挨拶もしてない、会ったこともない人がなんで自分の名前を知ってるの?と思ってしまいました。後日、その先生から聞いたところ、学生全員の名前は入学前に覚えるようになっているとのことでした。
それと入寮の受付の時、学生番号も言われるのですが、私は学生番号1番でした。
この食肉学校は企業からの派遣も多いのですが、当時はダイエーからの派遣者数が一番多かったので会社にしてやられたと思いました。1番はどうしても目立つからさぼれません。気軽に過ごすことをこの段階で諦めました。
学校に入校した当初から、朝起きたらきれいに寝具をたたみ、学校までは全員で列になって全体行進をし、学校の制服も詰襟でなんか軍隊っぽいビシッとしたものでした。
なんか普通の学校と違うと思い、学校の先生に聞いたら学校を作る時に日本海軍の江田島の士官学校をモデルに創設されたとのことでした。
学校の規律も結構厳しくて、週末だけは外出自由にはなるのですが、結局帰って来なかった学生もいました。脱走です。
刑務所以外で脱走なんかこの時代にあるんだと実感しました。
しかし、この学校ではお肉以外のこと、経営について等、いろいろ学ぶこともあり、本当に勉強になったと思います。
卒業時の成績は次席でした。よーするに全体の2番ということです。学校の先生からは、もうちょっとで首席だったといわれましたが、私は自分の順位よりも「成績の一番は首席、二番は次席」という名称を使っていることが、本当に軍隊の士官学校みたいだなーと思ってました。
ちなみに学校では副寮長に任命され、私はタバコを吸わないので寮全体を禁煙にするぞ!と喫煙組と戦いましたが負けました。それだけが学生生活で残念なことでした。
学校卒業後、職場に戻りましたが、印象深いのはダイエーホークスの初優勝セールです。
当時のダイエーホークス(ソフトバンクホークスではないですよ)は、万年Bクラスの弱小チームでした。
当時の王監督の生卵事件なんかもあり、とても優勝なんてという時代でした。
そんな中、初めてダイエーホークスが優勝しました。
野球の球団が優勝すると、その親会社は優勝セールをします。
当時のダイエーは、一応、日本最大の小売りグループでした(今は、イオングループですけど)。
私はその時は横浜市の店で勤務してましたが、お店は全国にあるので当然、全国のダイエーで初優勝セールをします。
なんといってもダイエーが球団をもってから初めての優勝セールです。
本当に想定外のお客様がお店にきました。
お店の通路ははっきり言って通れません。お客さんだらけで商品の補充もできません。売り場に商品が並ぶ前に商品を載せていた台車からどんどん持っていかれます。
この様子を見ていたお店の課長が「ひさびさ、買い物カゴが空を舞っているのが見れたな」と言ってました。
買い物カゴがお客様の流れにおされて、お客様の頭の上におしだされている状態です。
このような風景を見たのは後にも先にもこの時だけです。
【和民編】
数年ダイエーでお世話になったあと、居酒屋の会社 ワタミに転職しました。
理由はいろいろありますが、飲食関係の仕事に興味が出てきたこと、実家が小さい居酒屋をやっていたことなどです。
なぜワタミを選んだのかですが、私は結構本を読みます。ビジネス書から小説まで特にジャンルは関係なく。
週に一度は横浜の本屋さんをはしごして、気になった本はどんどん買っていました。
ある日、本屋さんで「青年社長」という小説が陳列されているのを見つけました。
なにげに手にとって見てみると主人公がベンチャー精神で起業をしていく物語でした。
一応フィクションの部分もありますが、実話に基づいたものとのことでした。
そのモデルが居酒屋の和民でした。
どーせなら勢いのある所で働こうと、この会社に決めました。
「ワタミ」というと今は「ブラック企業」の代名詞みたいに言われますが、当時、私が働いていた時は、死ぬほど忙しかったですが悪いことばかりの会社ではないなーと思っていました。
たしかに休みは少なかったです。しかし、当時ワタミに入ってくる人達は、将来独立するための勉強で入ってくるような方が多かったです。
働かされているというのではなく、ノウハウを盗みにきている方たちです。
ベンチャー企業とはこういう感じなんだというのを実感していました。
会社は信賞必罰で数字をあげれば栄転、落とせば左遷でしたのでお店の中の転勤は非常に多かったです。
引越しの荷物の段ボールを開けて整理する前にまた引越しというのもけっこうありました。
私はなんの飲食の経験もありませんでしたが、1年で店長になれました。
店長は基本、全てのことができないといけないので、厨房からホールまですべてのオペレーションをたたきこむ必要があります。
私はそんなに手先が器用ではないので、オムレツを作れるようになるまでそこそこ時間がかかったのを覚えてます。そのせいか、今でもフワフワトロトロオムレツは作ることができます。
また、店長は毎月、店長会議があります。そんなのお店のある会社なら当たり前だといわれるかもしれませんがワタミはちょっと違います。
店長会議の司会は、渡邉 美樹(わたなべ みき)です。
ワタミは「わたなべ みき」を略して、「和民」と当て字して作っています。
店長会議は朝の7時スタートなのですが、寝ていたら本当にどうなるかわからないので、強制的に寝ないように会議の時は一番前のど真ん中の席に座るようにしていました。
当時の渡邉美樹社長を見て思ったことなのですが、経営者に必要なことは知識でも頭のよさでもなく、カリスマ性なんだなと思いました。
その人の魅力です。宗教の教祖様に似ているところがあると思うのですが、どんなに厳しいことを言われようとお話したあとにはもうちょっと頑張てみようと思わせることができるかどうかなんだと思います。
ネット情報ではたたかれまくりの渡邉氏ですが、実際にあったことがある人は本当にオーラを感じると思います。
あと、店長会議では会社の数字についてのほか、研修会もかねてるので勉強もします。
経営についてのことが多いですが、指定図書は「マイケルポーターの競争の戦略」だったりします。
居酒屋の店長がビジネススクールで使うような本を使って勉強をしていました。
そんなおかげか、ワタミでは実際のお店のオペレーションから経営戦略、人事管理(たくさんのバイト君たちを使うので)、財務管理まで幅広く勉強できました。
私は本当に感謝しています。
【フリーター時代】
そんなワタミですが、居酒屋なので深夜も営業します。そんな中、私の体質があわなかったのか、夜勤での仕事が厳しくなってきました。もちろん仕事が忙しいこともありましたが、ちゃんと睡眠ができない状況が続いてしまい、物理的に仕事ができないなと判断し、退職することにしました。
しばらく充電するつもりで転職先を決めずに辞めました。
そんな折、本屋さんに立ち寄った時「ロースクール」というものが日本にできるという記事を見ました。
そー言えば、居酒屋の店長していた時にお客様で来ていた弁護士さんもそんなことを言ってたなーと思い出しました。
私は商学部出身で法学部出身ではないので、法律というものがよく分かったいませんでしたが、なんとなく興味が出てきました。本屋さんに伊藤塾(法律関係の資格学校)の案内パンフレットが置かれていたので、近くだったこともあり、説明会をのぞいて見ました。
ビデオ視聴での説明会でしたが、伊藤塾の塾長である伊藤真という方が説明されていました。
第一印象は、なんて早口に話す人なんだというものでした。
しかし、お話は、たしか憲法についてだと思いますが、かなり納得、共感できるようなものでした。
あっ、この人もカリスマだと実感しました。
この時になんの根拠もないのに弁護士になりたいと思いました。
私はまったく法律の知識がないので、基礎の基礎の勉強のため、縁のあった伊藤塾でバイトや派遣社員をしながら法律の勉強を始めました。
弁護士になるには基本、ロースクール(法科大学院)を卒業しないと司法試験の受験資格が得られません。
お医者さんになるために医学部を卒業し、医師国家試験を受けるという流れと似ています。
弁護士になるためにはほかに予備試験といってロースクールに行く代わりにこちらに合格すれば本番の試験も受験できますよというルートもありますが、法律の基礎の基礎がない私には無理なルートでした。
そこでどこの学校に行こうかとなりますが、ずっと東京の首都圏に住んでいましたが、いかんせん物価が高いです。物価の安い地方の学校で、寒い所もいやだなと思い、ホークスのある福岡にしました。
運よく、福岡大学法科大学院に合格できたので、福岡で勉強することになりました。
【ロースクール編】
法科大学院に入学して、最初に感じたのが、本当に勉強が大変だということでした。
大学院ですので試験に出るところだけ勉強するのではなく、その周りの部分も勉強します。
また、学校ですから授業があり、試験もあります。
この学校を卒業しないと司法試験の受験資格が得られないのですから、まずは卒業が目標です。
学校の仲間と懇親を図ることも時々ありましたが、イメージとしては本当に勉強ばっかりだった記憶しか残ってません。
卒業の前に学年の進級が必要です。
学校は3年間あるのですが、たしか1年の時に入学生の同期は40名ぐらいいたと思います。
それが2年に進級する時は半分になり、3年に進級する時はさらに半分になっていました。
また、さらに学校を卒業するには、卒業試験なるものが存在し、これに合格しないと卒業できません。
この卒業試験でさらに半分になり、ストレートで卒業までたどりとけたのは私を含め5名程度だったと思います。
その後に他の同期の方も多くはちゃんと卒業されていますが、本当にハードなロースクールでした。
本番の試験(一般的に司法試験といわれているもの)は、学校を卒業した後、5年間だけ受験することができます。
この間に合格できないとまたやり直しということになります。
試験は2段階になっていて、マークシートと筆記があります。
筆記試験は真っ白な紙に論文を書くという試験なんですが、手書きの論文を採点するので採点者は論文をちゃんと読まなければいけません。
受験者は毎年1万人弱いますが、当然、全員分の採点をするだけの人員がいないので、マークシートの試験で足切りを行います。おおよそ半分に。
もっとも先にマークシート試験を行い、その合格者が記述試験を受けるというシステムではなく、試験期間中に受験者全員が2つとも受験します。
私たちの時は試験日程は5日間あり、初日と2日目が記述式試験、3日目が中休み、4日目が記述式試験、最終日の5日目がマークシート試験となります。
つまり最終日の5日目のマークシート試験で合格点を取らないと、すでに書いた記述式試験が採点されず、誰の目に触れることもなく、そのまま倉庫に送られるというものです。
マークシートで足切りにあうと、その前に書いた記述の試験の努力はなんだったんだということになります。実際の私がそうでした。
マークシート試験は問題文と選択肢があり、どんどん回答していくというものですが、問題数もそれなりにあるので時間との戦いの面もあります。
あと、前提にはなるのですが、一応、司法試験は日本で一番難しい試験といわれてます。ロースクール在学時、現役のお医者さんでありながら、学生として在籍していた方がいらっしゃたのですが、その方も医師国家試験よりも難しいといわれていました。
そして、この問題は日本トップクラスの法律の専門家である学者等が一年間考えて問題を作成しています。そんな芸術品でもあるような問題を1問2分ほどでどんどん回答していきます。
私はこのマークシート試験が本当に苦手でした。
記述試験のほうは結構できたと思っても、このマークシートで足切りをくらってきました。
そして最後の受験の時は、なんとかマークシート試験は通過しましたが、そんな時に限って記述式の方があまり出来がよくなく、あえなく最終合格はできず、弁護士への挑戦はここでついえました。
【行政書士編】
最後の受験の時は、合格発表を福岡市舞鶴の検察庁舎の掲示板まで見に行きました。記述式の結果にそこまでの手ごたえは感じていなかったものの、この試験は自分の認識と違うところで点数が跳ねることもあるので、もしかしてと期待してわざわざ見に行きました。
しかし、結果は不合格。どれぐらいかの時間は忘れましたが、付近の公園でボーっとしていました。
近くに長浜港がありましたが、この気分で海の近くに行くのは危険だとの判断能力はありましたので、ちゃんと家に帰りました。
さあ、これからどうしようかです。
最後の試験を受けた後、合格発表までの期間にバイトは始めていましたので、しばらくは気晴らしにはなりました。
バイト先の近くに月ぎめで利用できる自習室があり、新聞を読むために借りていました。
自習室にはフリースペースのように軽い会話もできるところもあったので、よくその場所で新聞などを読みながらくつろいでいました。
するとお名前はわかりませんが、よくお見掛けする女性がスタッフの方に「今度、行政書士試験を受けるんです。今、その勉強をしています。」みたいなことを言うのが聞こえました。
何?、行政書士って?と思い、そーいえばロースクールにいた時も何人か小手調べに受けてみるというのを聞いたことがありました。
資格の中身はよくわかりませんでしたが、ネットで行政書士の試験科目を見てみると司法試験とまるっきり被っていることがわかりました。
だったら受けてみようと思い、出願しました。
受験する以上、行政書士試験の過去問は確認しておこうと思い、本屋で過去問集を購入しましたが、法律関係の出題は超基本的なところから出るとわかりました。一方、この行政書士試験、なんと法律問題以外に一般常識分野からの出題があることが判明しました。
「過去に甚大な被害を及ぼした台風はどれ」など、よくわかんない問題なので、この分野は自己の常識能力がどれだけあるかにかけて勉強はやめました。
受験当日ですが、行政書士試験の会場と司法試験の会場では空気がまったく違うことがわかりました。
司法試験の会場は試験監督員もたくさんいてピリピリの空気ですが、行政書士試験の会場はなんかゆるゆるの空気を感じました。
また、行政書士試験は条文の知識がそのまま出る試験なのに、試験前に条文の確認のために六法をみている受験生は一人もいませんでした。
この人たちは何者ぞ、と思ったのをまだ覚えています。
で、実際の試験ですが、受験を終えた瞬間に法律分野は合格点を確信しました。特に憲法は満点だなと解答をみるまでもなくわかりました。
しかし、問題は一般常識分野です。やはりよくわからない問題が続出でした。
行政書士試験は一定以上の点数を取れば合格という絶対評価の試験ではありますが、法律分野と一般常識分野でおのおの一定点数以上をとらないと足切りにあいます。
やばい、一般常識で足切りをくらうかもと真剣に思いました。落ちるならここだなと。
結局は合格していましたが、一般常識の点数はよくありませんでした。
行政書士試験には合格しましたが、この時点ではまだこの資格を生かそうとは思っていませんでした。
なぜなら仕事の中身がよくわからなかったからです。
しかし、興味はあったので何冊か実務関係の本を読み始めました。
すると、弁護士のように争いごとの解決はできないけれども、それ以外のことで他の士業が専属的に行っていること以外については、法律を生かしながら仕事ができる資格ということがわかってきました。
なんだ弁護士じゃなければ法律関係の仕事ができないわけじゃないんだ、だったらやろうと決めました。
そして、行政書士に登録することになりました。
行政書士連合会(行政書士をとりまとめている親玉みたいな組織)は行政書士のことを『あなたの街の法律家』と言っています。
すなわち身近な法律家ということです。
とすれば法律的な知識だけでなく、いろいろな経験にもとづいた知識なども使って相談、解決することが必要になってくると思います。
行政書士になるまで私はいろんな経験をしてきましたが、そのどれもがこの仕事で生かせると思っています。
今後とも、よろしくお願いいたします。
行政書士 亀井宏紀
【番外(ジャパネット)編】
一応、自己紹介をここまでやってきましたが、どこで紹介したらよいかよくわからない経歴があったので番外編で紹介します。
実は大学院を卒業後、受験勉強を続けるためにもアルバイトをしないといけないと思い仕事を探していました。
東京にいる時、コールセンターの派遣社員での勤務体験があったので、なにかそれに似たものがないか探してみました。
すると、通販会社の「ジャパネットたかた」がアルバイトの募集をしていました。
今は違いますが、有名な社長がテレビに出て商品を紹介していたあの会社です。
実際の募集はジャパネットたかたの注文を受け付ける部署でした。
履歴書を書いて面接に行きました。
あたりさわりのない面接ではありましたが、自分も居酒屋の店長時代に何百人とアルバイトの面接をしてきた経験から、これは採用されるなという感触がありました。
「採用合否の結果は3日以内に行います、連絡がない場合は不合格です」とお決まりのフレーズを聞いて、面接からの帰宅中、携帯にみなれない番号から着信がありました。
ジャパネットからでした。おいおい、まだ面接終わって1時間ほどしか経ってないやないかい、と関西風につっこみたいところでしたが、がまんして聞くと面接合格の連絡でした。
但し、アルバイトではなく、契約社員としてきてほしいとのことでした。
司法試験の受験後だったので、アルバイトでもしばらくはがっつり働こうと思っていて、いいですよと返答しました。
よっぽど人が足りてないのかなと、その時は思いましたが、後日しばらくして仕事にもなれたころ、このことを採用担当に聞いたらちゃんと人を見て採ったといわれました。
まあ、契約社員なんでアルバイトとは違う仕事をするんだろうなとは思ってましたが、責任ある仕事を任せすぎだろぐらい任されました。
入社2か月後には研修担当のグループに配属され、新しく入ってくる契約社員の研修をおこなったり、半年もせずにスーパーバイザーなどをやっていました。
ある意味すごい会社だなと思いました。
この会社も有名なカリスマ社長がいますが、企業文化としてもまだベンチャーみたいなところがあるんだなと感じました。
自身の耳の調子が悪くなり(その後、ちゃんと治りましたが)、あまり長い期間は働けませんでしたが、ここでもいい経験をさせてもらったと感謝しています。
まだ受験期間中だったので、少し勉強のペースが落ちたことはいなめませんが。