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プロフィール

プロフィール

 

 

 

亀井宏紀 行政書士事務所の、亀井宏紀(かめいひろき)と申します。

 

私自身、個人のホームページは、なにかの時に「こいつは、何者なんだ?」と第三者が思った時に、検索してみて「なるほど、こんなやつなのか」と確認するためのツールの部分が大きいと思いますので、かなり長くなりますが、自己紹介をしてみたいと思います。

 

まず、最初にですが、この「行政書士」という資格にたどりつくまでには、いろいろな人生経験を積んできてしまいましたので、恥ずかしながらの紹介とさせて頂きたいと思います。

 

ちなみに私の世代ですが、昨年、放送しておりましたNHKの朝ドラ「半分、青い」の主人公たち、楡野 鈴愛(永野 芽郁)、萩尾 律(佐藤 健)と、まったく同じ、1990年に田舎から上京(私は、東京ではなく神戸ですが)してきました。

 

よって、ちょっと朝ドラ風に、私の経歴を紹介していきたいと思います。

 

【和歌山編】

 

出身は、和歌山県の有田川町という所です。町名の通り、「有田みかん」が有名です。
ネタではなくて、秋になると、山々の段々畑が、みかんの色で埋め尽くされます。
今は、有田川町ですが、合併前は、吉備町という町でした。
岡山県の昔の国名「吉備国」と関係があるのかは、よくわかりません。
でも、岡山と和歌山は、よく言い間違えられるので、何か関係があるのかもしれません。

 

今でも、町は、空気と水が、本当に美味しい、田舎町です。

 

高校は、地元にある、「和歌山県立 耐久高校」に行きました。
地元以外の方から、出身高校はどこですか?と聞かれ、「たいきゅう高校です」
と返答した時、ほぼ「どんな漢字を書くんですか?」
と聞かれますので、「鈴鹿8時間耐久レースの耐久です」と答えてました。

 

でも、最近の方は、「鈴鹿8時間耐久レース」自体を、ご存知なのかは不明です。
昔は、「バリバリ伝説」などの漫画も流行ってたので、よく知られてましたが。

 

高校では、柔道部に所属してました。
高校時代は、身長176センチ、体重85キロほどの体格をしており、毎日バーベルを上げていたので、結構、見た目は強そうな感じでしたが、技の切れがなく、強くない選手でした。
今でも、そのなごりか、初対面の方から、「なにか運動をされてたんですか?」とは聞かれます。
今は、エアロビクスをしてますと、一応答えてます。

 

あと、中学、高校時代に、学校の部活以外に「ジュニアリーダー」という組織に入ってました。
地域の子供会を中心に、キャンプファイヤー、やレクリエーション、奉仕活動などを行うものです。
夏には、県内の子供が一か所に集まって、「こどもの国」なるイベントにも参加してました。

 

大学は、神戸にある「流通科学大学」に進学することになります。
今は亡き、スーパーのダイエーの創業者、中内功(いさお)氏が、設立した、ちゃんとした4年制大学です。
専門学校ではありません。
入学を希望したきっかけは、「スーパーの会社が、大学を創る!」とのをニュースを見て、将来は、何か商売関係の仕事をしたいと思ってたので、高校卒業後は、就職するつもりでしたが、それはやめて、大学に行くことにしました。

 

もっとも、高校時代は、ファミコンと部活しかせず、勉強を一切してなかったので、大学に行くと、担任の教師と、部活の顧問に報告したときには、世の中をなめるなと、怒られました。

 

高校は、地元では一応進学校でしたが、田舎の高校でしたので、当時はまだ在籍の、4分の1程は就職していました。私の成績ですが、高校1年生の時にあった、学年統一テストでは、405人中400番でした。
まだ、後ろに5人いると、当時の私は安心してましたが、後で当日は5人が風邪で欠席していることを、担任から言われました。

 

高校2年生の時に受けた全国模試では、和歌山県の受験者数と、私の成績順位が同じでした。
このような状況だったので当然、先生方からは、ご指導が入るのですが、私自身は、勉強をしてないから成績が悪いだけだと、へんな意識がありました。

 

しかし、大学受験はさすがに、勉強しないと受からないことはわかっていたので、志望大学の受験科目だけ勉強を絞ってやり始めたら、成績は上がりました。

 

特に、世界史は、学年で一番になったのを今でも覚えています。たしか、全国模試でも、世界史だけなら、1桁台の成績でした、総合成績は、ダメでしたが。

 

この時、普通の人間でも、範囲を絞って集中すれば、なんとかなるんだというのを経験しました。
少し前に、「ビリギャル」という映画があり、慶応大学に合格してましたが、合格した学部は、科目数の少ない学部で、その分野を集中して勉強してたので、合格してました。
この経験測は、今でも同じなんだなと実感しました。

 

そして運よく、私も、志望大学に合格し、神戸にいくことになりました。

 

【神戸編】

 

「流通科学大学」に進学し、大学では、学園祭実行委員会に所属しました。
入学したときは、まだできて3年目の大学で、大学には柔道部もなかったので、特に入りたい所はなかったのですが、新入生歓迎のパーティーを仕切って運営していたのが、学園祭実行委員会だったので、面白そうという理由だけで入りました。
メインの行事は、名称の通り、学園祭の実行ですが、なぜか、変な、おもしろい人間ばかりでしたので、忙しいながらも楽しくやってました。

 

大学の学部は商学部ですが、語学の授業がめちゃくちゃありました。
受験科目の世界史で、中国史が大好きだった関係で、よく考えず大学の履修を中国語専修にしてしまいました。
学校自体、語学教育に力を入れており、特に、中国語は気合が入っていました。
教えてくれる教授は、日本人ではありますが、NHKの中国語会話などでも教えていた先生でした。
しかも、中国語専修クラスは、第一外国語が中国語、第二外国語も中国語だったので、毎日中国語の授業がありました。
さらに、夏休みには、一か月間の短期中国語学留学もあったので、私は、外国語大学にきたのではないかと、当初は本当に思っていました。

 

また、3年次からのゼミは、マーケティングのゼミに所属しました。
ゼミは、ケーススタディ方式でした。講師と受講生が対話を進めながら進行する手法で、ビジネススクールで行われているやり方です。
教材も、教授が厳選したもので、今振り返れば、かなり高度なことをしていましたが、当時はよくわかってませんでした。本当にもったいないです。

 

そんな中国及び、マーケティングとの関係から、大学4年生の時には、大学から派遣される、中国の流通調査に参加しました。
中国の成都から、重慶、上海と長江(揚子江)を下りながら流通調査を行うという壮大なものでした。
4年生の男子は、私だけだったので、雰囲気的に学生リーダーに任命されてしまいました。

 

大学の理事長でもある、中内功が同行するので、学生よりも、周りの取り巻きのスタッフのか方々が大変だったことをよく覚えています。
当時の中内氏は、けっこう飛ぶ鳥を落とすような勢いでビジネスをしていて、お店もどんどん出している、ホークスという球団も持ってる、リクルートも買った、という感じだったので、今でいう、ソフトバンクの孫社長ぐらいのレベルだと思います。

 

学生ながら、すごい人が来ると、周りの方は、いろいろと大変なんだということを学べたのが、印象的でした。

 

少し話はそれますが、私のいた「流通科学大学」ですが、当時は、本当に画期的な大学でした。
今では当たり前のことを、1990年には、やってました。時代の先取り感が半端ないです。

 

まず、学内は、キャッシュレスです。財布を忘れても、学生証にクレジットカード機能がついているので、買い物ができます。学生専用の駐車場もあり、その出入りも学生証でできます。授業の出欠も学生証です。まだ、インターネットもない、携帯も存在はしてましたが、みんなが持てる時代ではない時にこのシステムです。
カリキュラムの中でも、「企業論特別講義」というのが毎週あって、内容はなにかというと、毎週、企業の社長がきて、講演をします。
社長といっても、中小企業の親父さんではなく、誰もが知る超一流企業の現役社長です。
例えば、三菱商事とか、JR東日本とかの社長です。
学生の時は、ひまなので、講演を聞きにいっていた感覚でしたが、社会にでて、すごいことだと実感しました。
また、就職活動などに関しては、3年生の終わりごろから、特定の企業の協力のもと、インターンシップがありました。

 

なんだ、インターンシップか、そんなのどこでもしてるじゃないかと言われるかもしれませんが、インターンシップを日本の企業が行い始めたのは、2000年代に入ってからです。
それを、私のいた大学は、その10年前からやってました。なんとも、すごいことです。
すごい大学でしたが、私は、勉学に熱心な学生ではなかったので、本当にもったいないことをしたと思っております。

 

【ダイエー、竹岸編】

 

卒業後は、ダイエーに就職しました。当時は、大学の理事長=ダイエーの社長の中内氏だったので、卒業生の1割ほどは、ダイエーに入社してました。

 

入社後は、精肉部門(スーパーのお肉売り場)に配属され、毎日、お肉に囲まれた日々を過ごします。
お肉屋さんに配属され、お肉に関するウンチクなどもたくさん教わりました。
例えば、上司から「普通の人が美味しいお肉を食べた時、最初に言う一言は、『美味しい!』ではなく、『やわらかい!』というんだ」ということでした。
これを聞いてから、他の人と焼肉にいった時など、注視して食べた一言目を聞いてると、ほぼ、みんな、『やわらかい』と言ってました。

 

入社2年目には、ちゃんとした辞令で、「竹岸食肉専門学校に派遣を命ず」というのが出ました。
学校卒業後、会社に入って、また学校に飛ばされるという、そんな辞令があるのか!と初めて知りました。

 

「竹岸食肉専門学校」とは、茨城県土浦市にあるお肉の専門学校です。ハムメーカーの、プリマハムが運営している食肉学校です。
そこで、給料をもらいながら、半年間、なんと全寮制で再び、学生生活のスタートです。
今でも覚えているのが、入学式の前日に入寮するのですが、受付の方に行った所、
学校の職員らしき方から、「おい、亀井、受付はこっちやから、ここに並べ」と言われました。
はっ?まだ、受付してない、挨拶もしてない、会ったこともない人が、なんで自分の名前を知ってるの?
と思ってしまいました。後日、その先生から聞いた所、学生全員の名前は、入学前に覚えるようになっているとのことでした。
あと、入寮の受付の時、学生番号も言われるのですが、私は、学生番号1番でした。
この食肉学校は、企業からの派遣も多いのですが、当時は、ダイエーからの派遣者数が一番多かったので、会社にしてやられたと思いました。1番は、どうしても目立つから、さぼれません。気軽に過ごすことを、この段階で諦めました。

 

学校に入校した当初から、朝起きたらきれいに寝具をたたみ、学校までは全員で列になって、全体行進をし、学校の制服も、詰襟で、なんか軍隊っぽいビシッとしたものでした。
なんか普通の学校と違うと思い、学校の先生に聞いたら、学校を作る時に、日本海軍の江田島の士官学校をモデルに創設されたとのことでした。
学校の規律も結構厳しくて、週末だけは外出自由にはなるのですが、結局、かえって来なかった学生もいました。脱走です。
刑務所以外で、脱走なんか、この時代にあるんだと、実感しました。

 

しかし、この学校では、お肉以外のこと、経営について等、いろいろ学ぶこともあり、ここでは、本当に勉強になったと思います。
卒業時の成績は、次席でした。よーするに、全体の2番ということです。学校の先生からは、もうちょっとで、首席だったといわれましたが、私は、自分の順位よりも、「成績の一番は首席、二番は次席」という名称を使っていることが、本当に軍隊の士官学校みたいだなーと思ってました。

 

ちなみに、学校では、副寮長に任命され、私はタバコを吸わないので、寮全体を禁煙にするぞ!と喫煙組と戦いましたが、負けました。それだけが、学生生活で残念なことでした。

 

学校卒業後、職場に戻りましたが、印象深いのは、ダイエーホークスの初優勝セールです。
当時のダイエーホークス(ソフトバンクホークスではないですよ)は、万年Bクラスの弱小チームでした。
当時の王監督の、生卵事件なんかもあり、とても優勝なんてという時代でした。
そんな中、初めて、ダイエーホークスが優勝しました。
野球の球団が優勝すると、その親会社は、優勝セールをします。
当時のダイエーは、一応、日本最大の小売りグループでした(今は、イオングループですけど)。
私は、その時は、横浜市の店で勤務してましたが、お店は全国にあるので、当然、全国のダイエーで初優勝セールをします。
なんといっても、ダイエーが球団をもってから、初めての優勝セールです。
本当に、想定外の、お客様がお店にきました。
お店の通路は、はっきり言って通れません。お客さんだらけで、商品の補充もできません。売り場に商品が並ぶ前に、商品を載せていた台車から、どんどんもってかれます。
この様子を見ていたお店の課長が、「ひさびさ、買い物カゴが、空を舞っているのが見れたな」と言ってました。
買い物カゴが、お客様の流れにおされて、お客様の頭の上におしだされている状態です。

 

このような風景を見たのは、後にも先にもこの時だけです。

 

【和民 編】

 

数年ダイエーでお世話になったあと、居酒屋の会社 ワタミに転職しました。
理由は、いろいろありますが、飲食関係の仕事に興味が出てきたこと、実家が、小さい居酒屋をやっていたことなどです。
なぜワタミを選んだのかですが、私は結構、本を読みます。ビジネス書から小説まで特にジャンルは関係なく。
週に一度は、横浜の本屋さんをはしごして、気になった本は、ばんばん買ってました。
ある日、本屋さんで、「青年社長」という小説が陳列されてました。
なにげに手にとって、見ると、主人公が、ベンチャー精神で起業をしていく物語でした。
一応フィクションの部分もありますが、実話に基づいたものとのことでした。
そのモデルが、居酒屋の和民でした。
どーせなら、勢いのある所で働こうと、ここの会社に決めました。

 

「ワタミ」というと、今は、「ブラック企業」の代名詞みたいに言われますが、当時、私が働いていた時は、死ぬほど忙しかったですが、悪いことばかりの会社ではないなーと思ってます。

 

たしかに、休みは少なかったです。でも、当時、ワタミに入ってくる人達は、将来独立するための勉強で、入ってくるような方が多かったです。
働かされている、というのではなく、ノウハウを盗みにきている方たちです。
ベンチャー企業とは、こういう感じなんだというのを感じてました。
会社は、信賞必罰だったので、数字をあげれば栄転、落とせば、左遷でしたので、お店の中の転勤は非常に多かったです。
引越しの荷物の段ボールを、開けて整理する前にまた引越しというのもけっこうありました。
私は、なんの飲食の経験もありませんでしたが、1年で店長になれました。
店長は基本、全てのことができないといけないので、厨房からホールまですべてのオペレーションをたたきこむ必要があります。
そんなに手先が器用ではないので、オムレツを作れるようになるまで、そこそこ時間がかかったのを覚えてます。そのせいか、今でも、フワフワトロトロオムレツは作れます。
あと、店長は、毎月、店長会議があります。そんなのお店のある会社なら、当たり前だといわれるかもしれませんが、ワタミは、ちょっと違います。
店長会議の司会は、渡邉 美樹(わたなべ みき)です。
ワタミは、「わたなべ みき」を短く略して、「和民」と当て字して作っています。
今は、経営者としては引退し、議員さんをされてますが、当時は、いけいけどんどんのベンチャーの見本のような方です。
店長会議は、朝の7時スタートなんですが、寝てたら、本当にどうーなるかわからないので、強制的に寝ないように、会議の時は、一番前のど真ん中の席に座るようにしてました。

 

当時の、渡邉 美樹社長を見て思ったことなんですが、経営者に必要なことは、知識でも頭のよさでもなくて、カリスマ性なんだなと思いました。
その人の魅力です。宗教の教祖様に似ている所があると思うのですが、どんな厳しいことを言われようと、お話したあとには、もうちょっと頑張てみようと、思わせることができるかどーかなんだと思います。
ネット情報では、たたかれまくりの渡邉氏ですが、実際にあったことがある人は、本当にオーラを感じると思います。
あと、店長会議では、会社の数字についてのほか、研修会もかねてるので、勉強もします。
経営についてのことが多いですが、指定図書は、「マイケルポーターの競争の戦略」だったりします。
居酒屋の店長が、ビジネススクールで使うような本を使って勉強をしてました。

 

そんなおかげか、ワタミでは、実際のお店のオペレーションから、経営戦略、人事管理(たくさんのバイト君たちを使うので、)、財務管理まで、幅広く勉強できました。
私は、本当に感謝してます。

 

【フリーター時代】

 

そんなワタミですが、居酒屋なので、深夜も営業します。そんな中、私の体質があわなかったのか、夜勤での仕事が厳しくなってきました。もちろん、仕事が忙しいこともありましたが、ちゃんと睡眠ができない状況が続いてしまい、物理的に仕事ができないなと判断し、退職することにしました。
しばらく充電するつもりで、転職先を決めずに辞めました。

 

そんなおり、本屋さんに立ち寄った時、「ロースクール」というものが日本にできるという記事を見ました。
そー言えば、居酒屋の店長してた時に、お客様できていた弁護士さんも、そんなことを言ってたなーと思いだしました。
私は、商学部出身で、法学部出身ではないので、法律というものがよく分かったいませんでしたが、なんとなく興味が出てきました。本屋さんに、伊藤塾(法律関係の資格学校)の案内パンフレットが置かれていたので、近くだったこともあり、説明会をのぞいて見ました。
ビデオ視聴での説明会でしたが、伊藤塾の塾長である、伊藤真という方が説明されてました。
第一印象は、なんて早口に話す人なんだというものでした。
しかし、お話は、たしか憲法についてだと思いますが、かなり納得、共感できるようなものでした。
あっ、この人もカリスマだと実感しました。
この時に、なんの根拠もないのに、弁護士になりたいと思いました。

 

私は、まったく、法律の知識がないので、基礎の基礎の勉強のため、縁のあった伊藤塾で、バイトや、派遣社員をしながら、法律の勉強を始めました。
弁護士になるには、基本、ロースクール(法科大学院)を卒業しないと、試験の受験資格が得られません。お医者さんになるために、医学部を卒業し、医師国家試験を受けるという流れと似ています。
弁護士の場合は、予備試験といって、ロースクールに行く代わりにこちらに合格すれば、本番の試験も受験できますよというルートもありますが、法律の基礎の基礎がない私には、無理なルートでした。
そこで、どこの学校に行こうかとなりますが、ずっと東京の首都圏に住んでいましたが、いかんせん物価が高いです。物価の安い地方の学校で、寒い所もいやだなと思い、ホークスのある福岡にしました。
運よく、福岡大学法科大学院に合格できたので、福岡で勉強することになりました。

 

【ロースクール 編】

 

学校に入学して、最初に感じたのが、本当に勉強が大変だということでした。
大学院ですので、試験に出る所だけ勉強するのではなく、その周りの部分の所も勉強します。
また、学校ですから、授業があり、試験もあります。
この学校を卒業しないと、受験資格が得られないのですから、まずは卒業が目標です。
学校の仲間と、懇親を図ることも度ありましたが、イメージとしては、本当に勉強ばっかりだった記憶しか残ってません。
卒業の前に学年の進級が必要です。
学校は、3年間あるのですが、確か、1年の時に入学生の同期は40名ぐらいいたと思います。
それが、2年に進級する時は、半分になり、3年に進級する時は、さらに半分になってました。
また、さらに、学校を卒業するには、卒業試験なるものが存在し、これに合格しないと、卒業できません。
この卒業試験でさらに半分になり、ストレートで卒業までたどりとけたのは、私を含め5名程度だったと思います。
その後に、他の同期の方も、多くはちゃんと卒業されてますが、本当にハードな、ロースクールでした。

 

本番の試験(一般的には、司法試験といわれているもの)は、学校を卒業後、5年間受験することができます。
この間に、合格できないと、またやり直しということになります。

 

試験は、2段階になっていて、マークシートと筆記があります。
筆記試験は真っ白な紙に、論文を書くという試験なんですが、手書きの論文を採点するので、採点する人は、ちゃんと読んで採点しないといけません。
受験者は、毎年、1万人弱いますが、当然、全員分の採点するだけの人員がいないので、マークシートの試験で、足切りを行います。おおよそ半分に。
もっとも、先にマークシート試験を行い、その合格者が、記述試験を受けるというシステムではなく、
試験期間中に、受験者全員が2つとも受験します。
私たちの時は、試験日程は5日間あり、初日と2日目が記述式試験、3日目が中休み、4日目が記述式試験、最終日の5日目がマークシート試験となります。
つまり、最終日の5日目のマークシート試験で、合格点を取らないと、すでに書いた記述式試験が採点されず、誰の目に触れることなく、そのまま倉庫に送られるというものです。
マークシートで足切りにあうと、その前に書いた記述の試験の努力はなんだったんだということになります。
実際の私がそうした。
マークシートの試験は、問題文と選択肢があり、どんどん回答していくというものですが、問題数もそれなりにあるので、時間との戦いの面もあります。
あと、前提にはなるのですが、一応、司法試験は、日本で一番難しい試験といわれてます。ロースクール在学時、現役のお医者さんでありながら、学生として在籍していた方がいらっしゃたのですが、その方も、医師国家試験よりも難しいといわれてました。
そして、この問題は、日本トップクラスの法律の専門家である学者等が、一年間考えて、問題を作成しています。そんな芸術品でもあるような問題を、1問2分ほどで、どんどん回答していきます。
私は、このマークシート試験が本当に苦手でした。
記述試験のほうは、結構できたと思っても、このマークシートで足切りをくらってきました。
そして、最後の受験の時は、なんとかマークシート試験は通過しましたが、そんな時に限って、記述式の方が、あまり出来がよくなく、あえなく、最終合格はできず、弁護士への挑戦は、ここでついえました。

 

【行政書士 編】

 

最後の受験の時は、合格発表を、福岡市舞鶴の検察庁舎の掲示板まで見に行きました。記述式の結果にそこまでの手ごたえは感じていなかったものの。この試験は、自分の認識と違う所で点数が跳ねることもあるので、もしかしてと期待して、わざわざ見に行きました。
しかし、結果は不合格。どれぐらいかの時間は忘れましたが、付近の公園で、ボーっとしてました。
近くに、長浜港がありましたが、この気分で、海の近くに行くのは危険だとの判断能力はありましたので、ちゃんと家に帰りました。
さあ、これからどうしようかです。
最後の試験を受けた後、合格発表までの期間にバイトは始めてましたので、しばらくは気晴らしにはなりました。
バイト先の近くに、月ぎめで利用できる自習室があり、新聞を読むために借りていました。
自習室には、フリースペースみたいに、軽い会話もできる所もあったので、よくその場所で、新聞などを読みながらくつろいでました。
すると、お名前はわかりませんが、よくお見掛けする女性が、スタッフの方に、「今度、行政書士試験を受けるんです。今、その勉強をしてます」みたいなことを言うのが聞こえました。
何、行政書士って、と思い、そーいえば、ロースクールにいた時も、何人か、小手調べに受けてみるというのを聞いたことがありました。
資格の中身はよくわかりませんでしたが、ネットで行政書士の試験科目を見てみると、司法試験とまるっきり被っていることがわかりました。
だったら、受けてみようと思い、出願しました。
受験する以上、行政書士試験の過去問は、確認しておこうと思い、本屋で過去問集を購入しましたが、法律関係の出題は、超基本的なところから出るとわかりました。一方、この行政書士試験、なんと法律問題以外に、一般常識分野からの出題があることが判明しました。
「過去に甚大な被害を及ぼした台風はどれ」など、よくわかんない問題なので、この分野は自己の常識能力がどれだけあるかにかけて、勉強はやめました。
受験当日ですが、行政書士試験の会場と、司法試験の会場では、空気がまったく違うことがわかりました。
司法試験の会場は、試験監督員もたくさんいて、ピリピリの空気ですが、行政書士試験の会場は、なんかゆるゆるの空気を感じました。
また、行政書士試験は、条文の知識がそのままでる試験なのに、試験前に条文の確認のために、六法をみている受験生は、一人もいませんでした。

この人たちは、何者ぞ、と思ったのをまだ覚えています。
で、実際の試験ですが、受験を終えた瞬間に、法律分野は、合格点を確信しました。特に、憲法は満点だなと、解答をみるまでもなくわかりました。
しかし、問題は、一般常識分野です。やはり、よくわからない問題が続出でした。
行政書士試験は、一定以上の点数を取れば合格という絶対評価の試験ではありますが、法律分野と一般常識分野で、おのおの一定点数以上をとらないと、足切りにあいます。

 

やばい、一般常識で足切りをくらうかもと真剣に思いました。落ちるなら、ここだなと。
結局は、合格してましたが、一般常識の点数はよくありませんでした。

 

もっとも、行政書士試験には、合格しましたが、この時点では、まだこの資格を生かそうとは思っていませんでした。
なぜなら、仕事の中身がよくわからなかったからです。
でも、興味はあったので、何冊か実務関係の本を読み始めました。
すると、弁護士のように、争いごとの解決はできないけれども、それ以外のことで、他の士業が専属的に行っていること以外については、法律を生かしながら、仕事ができる資格ということがわかってきました。
なんだ、弁護士じゃなければ、法律関係の仕事ができないわけじゃないんだ、だったら、やろうと決めました。

 

そして、行政書士に登録することになりました。
行政書士連合会(行政書士をとりまとめている親玉みたいな組織)は、行政書士のことを
『あなたの街の法律家』と言っています。
すなわち、身近な法律家ということです。
とすれば、法律的な知識だけでなく、いろいろな経験にもとづいた知識なども使って、相談、解決することが必要になってくると思います。

 

行政書士になるまで、私は、いろんな経験をしてきましたが、そのどれもが、この仕事で生かせると思っています。

 

今後とも、よろしくお願い致します。

 

行政書士 亀井宏紀

 

 

 

【番外(ジャパネット)編】
一応、自己紹介をここまでやってきましたが、どこで紹介したらよいかよくわからない経歴があったので、番外編で紹介します。
実は、大学院を卒業後、受験勉強を続けるためにも、バイトをしないといけないと思い仕事を探してました。
東京にいる時、コールセンターの派遣社員での、勤務体験があったので、なにかそれに似たものがないか探してみました。
すると、通販会社の「ジャパネットたかた」が、アルバイトの募集をしていました。
今は違いますが、有名な社長がテレビに出て、商品を紹介しているあの会社です。
実際の募集は、ジャパネットたかたの注文を受け付ける部署でした。

 

履歴書を書いて、面接に行きました。
あたりさわりのない面接ではありましたが、自分も居酒屋の店長時代に、何百人とアルバイトの面接をしてきた経験から、これは採用されるなという感触がありました。
「採用合否の結果は、3日以内に行います、連絡がない場合は不合格です」とお決まりのフレーズを聞いて、面接からの帰宅中、携帯にみなれない番号から、着信がありました。

 

ジャパネットからでした。おいおい、まだ面接終わって1時間ほどしかたってないやないかい、と関西風につっこみたい所でしたが、がまんして聞くと、面接合格の連絡でした。
但し、アルバイトではなく、契約社員として、きてほしいとのことでした。
受験後だったので、アルバイトでも、しばらくは、がっつり働こうと思ってたので、いいですよと返答しました。
よっぽど、人が足りてないのかなと、その時は思いましたが、後日、しばらくして仕事にもなれたころ、このことを採用担当に聞いたら、ちゃんと人を見て採ったといわれました。
まあ、契約社員なんで、アルバイトとは違う仕事をするんだろうなとは思ってましたが、責任ある仕事を任せすぎだろぐらいまかされました。
入社2か月後には、研修担当のグループに配属され、新しく入ってくる契約社員の研修をおこなったり、半年もせずに、スーパーバイザーなどをやってました。
ある意味、すごい会社だなと思いました。
この会社も、有名なカリスマ社長がいますが、企業文化としてもまだ、ベンチャーみたいな所があるんだなと感じました。
自身の耳の調子が悪くなり(その後、ちゃんと治りましたが)、あまり長い期間は働けませんでしたが、ここでもいい経験をさせてもらったと感謝してます。
まだ、受験期間中だったので、少し、勉強のペースが落ちたことは、いなめませんが。

 

 

 

 


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